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宇田川版グルメリポート 第5回 江戸川乱歩も愛した神保町「はちまき」の天丼



1 日本の料理の歴史


 懐石料理を食べたことはあるだろうか。もちろん多くの人は食べたことがあると思う。基本的には日本のコース料理として正式な席などでは懐石料理を選ぶことがある。


 もともとは、神宮などで神様にお供えする料理として存在するものであり、基本的には人間が食べるものではない。もちろん、神社の神棚に備えてあるものを誰かがつまみ食いをするということであれば話は別であるが、基本的には神様にお供えしたものを横取りするなどということをすると、罰当たりとして非難されることになる。


 同時に、神社の関係者に聞けば、本膳料理というのは「食べないこと」を前提にしていることから、料理人も味付けをそんなに真剣に行っているわけではない。基本的には「味」よりも神様が喜びそうな盛り付けや色合いの方が重要視されているという。つまり見た目はかなり良く豪華に見えるが、実際に食べてみればおいしくないということだそうだ。

 今回は、特に懐石料理を紹介するわけではない。


 ただ、懐石料理の時や、少し豪華な松花堂弁当などの時の特徴が言いたいのである。何かといえば「お食事」が最後に出てくるということだ。懐石料理でもお気づきだと思うが、それまでに様々な「おかず」が出て、最後に「お食事」として「ご飯」「香の物」「味噌汁(だいたい赤だし)」が出てくるというような状況になっている。

あまり懐石料理を知らない人や外国人からは「今まで出てきたのは食事ではないのか」というような疑問をもらうことがある。実際に、食べ物であることは間違いがないのであるが、日本の場合、同じ食べ物であっても、その食べ物の役割によって全く異なる言い方をする。私はあまり外国語に詳しくないので外国でどうなのかはよくわからないが、しかし、外国であっても「朝食」「昼食」「夕食」というように時間によっての食べ物の違いをいうことはよくあるようだ。



 しかし、その食べ物の役割によって「食事」「おかず」だけではなく「おつまみ」というような言い方もあるし、茶菓子などというような言葉もある。中には「口汚し」「箸休め」というような料理もあるほどだ。そこで当然に、懐石料理の最後に「お食事」という名前が出てきてもおかしくはない。


 日本の懐石料理の場合、そもそも本膳料理が「酒のつまみとして食べる」としているものであることから、当然に、それまでの料理は「少し味が濃く、酒がおいしく飲める味付けになっている」ということになっている。そのために、酒が飲めない人はあまり懐石料理の場所に来ない。料亭などにおいて芸者などがお酒を一緒に飲めたり、あるいは酌をして場を盛り上げるというのは基本的に料理そのものと同じ由来になっていることが大きい。


 日本における宴会は酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成されている。酒礼は一同に酒が振る舞われる儀礼で、今日の乾杯や「駆付け三杯」にあたる。酒礼の後には飯汁を中心とした饗膳(膳、本膳)に入り、茶や菓子も含まれる。酒礼と饗膳は座を変えて行うことが多く、平安時代の饗宴においては酒礼・饗膳を「宴座」、宴会の酒宴は「穏座」と呼称して区別していたのだ。

 なぜこれだけ酒が重視されるかといえば、当然に「酒」こそ神様の食べ物と思われていたからである。大和言葉で「さ」とは「稲の神様」という意味を持っている。御存じのように日本では「コメ」を中心に神様が多数いる多神教の中である。コメに神があり、そしてその米を育てる神として、太陽の神である天照大神がいて、水神がいて、各土地の神がいる。風神も雷神もいるというような感じである。そしてその稲の神のことを「サ」というのである。

 「サ」という音は「皐月」の「皐」という字に由来しているのか、あるいは「サ」という音からこの漢字が当てられたのかはわからない。いずれにせよ「稲の神様が現れる月」のことを「サツキ(皐月または五月)」という。稲の神様を植える女性のことを「早乙女」「五月女」という。同じように「サ」の食べ物を「朝餉・夕餉」の「餉(け)」という。そう「『サ』の神様の『餉(け)』」であるから「サケ」なのである。

 もともとの本膳料理が、神宮などで神々に供えられた料理であることから、当然にその食べ物は「神様が食べる」という前提になっている。その神様の食べるものは、「神様の主食である酒」を中心に考えられているのである。

 ということで「改めて食事」ということで、最後におなかがまだすいている人のためにお米と、香の物と、味噌汁ということになる。



2 丼物という宇宙


 このように、本来は「神様と同じものを食べる」ということで、その場で話し合っていることに関し一緒に神様が聞いているので誠実な受け答えをしなければならないとか、嘘をつかないというような話が十分に考えられる。食事中のマナーが多いのも、まさに食事そのものが「神様をいただいている」という感覚があるから、そのようになるのである。


 そして多くのおかずは「酒のつまみ」としての位置づけになっているので「ご飯」という主食とおかずを一緒に食べるというような習慣は少なかった。では、その「主食とおかず」という組み合わせはいつから始まったのか。これも諸説あるが、日本において「酒」がメインではない料理が出るようになったのは武士が台頭してきたときからであるとされている。

もちろん、それまでも庶民の生活はどうなったのか、酒など飲めるはずがなかったであろうし、また、全国に派遣される役人たちはどうであったのかということもあるのではないか。実際に、「武士の台頭」などといっても、鎌倉時代ではなく、その前から武士は台頭していたと思われる。平将門の乱も源平合戦も平安時代のことである。そのように考えた場合、当然に、武士が長い人になった時に、食事の都度酒を飲んでいたとは考えられない。


 そう考えれば、主食をメインにしたお弁当というものが出てきたのではないか。

それでも「コメ」と「おかず」を一緒に食べるということに関しては、上流階級の人々の間では、あまり好まれない。ある意味で「肉体労働者と同じで下品」などというような感じになってしまう。もちろん、肉体労働者が下品であるかどうかは別な問題であるが、しかし、「時間に追われ、栄養をつけなければならない食事は、優雅ではない」という意味で使われているようなのである。

 しかし、「主食」と「おかず」を組み合わせるというのは、なかなか素晴らしい食べ方である。


 日本食の中ではそれほど古い歴史を持つ食事形式ではない。室町時代に「芳飯」という料理が流行したことはあるが、鰻丼の原型となる鰻飯が登場するのは19世紀初めの文化年間(1804~1818年)になってからで、天丼や、のちに深川丼とも呼ばれるようになる深川飯の誕生は江戸時代末期以降といわれている。ちなみにヨーロッパでパンにおかずを挟んで食べる「サンドイッチ」または、中国などで主食を饅頭の中に入れる「饅頭(マントウ)」などは、古くからある。記録などによればローマ時代などにあったとされているのだ。

なお「サンドイッチ」という語源は、ギリスの貴族、第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューにちなんで付けられたものであるが、この伯爵が考案したわけではないとされている。しかし、パンと米の飯は基本的に違っている。


 そもそも米の飯というのは、パンなどと違って、コメの形そのもので、基本的には「研ぐ」ことはしてもパンのように塩やバターなど他の調味料を入れて食べるものではない。そのために、「コメの神を純粋に頂いている」感覚がある。そのために「コメの味そのものを味わう」ということが重要視されており、米の飯の上に他の味が重なったり、米の飯の香りを失うような食べ方を嫌うのである。


 しかし、である。

 それは上品な貴族出身の人のことである。何しろ、日本人にとってコメというのは主食であり、なおかつ塩分などもなく、非常においしく頂ける最高の食材なのである。そのうえ、すぐに食べるときと、よく噛んででんぷん質が糖質を出してくるときと、味が変わる。その味が口の中で変わるその変化を味わえるところが違う。「コメの中には神様がいる」というような言い伝えがあるが、その「コメの中の神様」が口の中で出てくると、甘味が出て来るという素晴らしい食べ物。


 そこまで計算して、米の飯の上に様々なものを乗せたり、あるいは、米の飯にたれをかけて食べるという食べ方が開発されるのである。物の本によれば、初めは戦国時代の戦陣の中でご飯の上におかずをのせて食べたというようなことが言われたり、それ以前の室町時代に、うな重に近い食べ方があったとされている。


 しかし、そのような文化を発展させたのは江戸時代だ。江戸時代の江戸というのは、よく「町人文化」などということを言うが、実際のところ、そのような感覚をする以上に「武士と町人の町」つまり「京都というそれまでの伝統と貴族の生活習慣を無視した文化発展のあった町」というような評価をすべきであろう。単純に言えば、それまでのしがらみをすべて無視して、文化をは発展させたということである。この状況を政治システムで言えば「庄屋仕立て」などという言葉を歴史の教科書の中では習うのであるが、文化の部分はそのような書き方はしない。そこで「江戸の町人文化」というような感じになってしまうのである。元禄文化などは、まさにそのような感じで習うことがある。 


 考えてみれば、室町時代は始まってからすぐに南北朝の争いがあり、観応の擾乱という室町幕府内の派閥争いがあり、やっと南北朝が統一したと思えば嘉吉の乱で六代将軍足利義教が暗殺され、そして八代将軍足利義政の治世以降、戦国時代になる。つまり235年間の室町時代のほとんどは戦乱の世の中であり、文化の発展ということの絶対条件である「平和」がなかったということになる。その中で唯一平和であったのは権力者の近くにいる者たちと、戦争に関係のないところということになるので、狩野派の金屏風や仏教芸術が発展することになるのだ。当然にそのような時に食文化が発展するはずがなく、「効率重視の食事」ということになってしまう。


 「効率重視」といえば、丼物のようにご飯の上におかずが乗っているのは良いかのように考えられるが、しかし、丼物は丼と箸が必要で、両手がふさがってしまう。現在、お祭りの屋台などに行って、たこ焼きや焼きそばを食べるときに器と箸で両手を取られてしまって、行動ができなくなることがある。そのような意味で、串に刺さった食べ物が非常に素晴らしく感じることになるのである。


当然に戦国時代も同じで、京都の権威を利用している武士は、普段の食事は京都風懐石料理で、戦陣では両手がふさがらないおにぎりなどが主流で丼物ははやらなかったようだ。

 その意味で「京都と関係がない」というだけではなく「平和」であるということが最も重要な要素であり、そして、235年の室町時代の「文化無風時代」があったために、「自由に発展する文化」ができたということになるのであった。

 そこで、様々な物が丼ご飯の上に乗ることになる。


 まずは、うな丼。やはり鰻のかば焼きというのは、以前グルメリポートに書いたが最高である。しかし、鰻は、「うな重」が基本であって「うな丼」にはなかなかならない。江戸時代にここで登場するのが「深川丼」と「天丼」である。ちなみに、この丼物とは違う形で発展したのが「寿司」である。主食のご飯の上にアナゴやマグロなどを乗せて食べる形式で、これは手で食べられるように「おにぎり」という。


 ちなみにもう少し食べやすくしたのが海苔で巻いた「海苔巻き」というスタイルだ。その後明治時代になって「木の葉丼」「卵丼」「かつ丼」などがあり、そして「牛丼」などが出てくることになる。まさに「ご飯の上に何でも乗せてよい」ということになる。これは「京都の文化」などとは関係がないということから、逆に何の法則もないということになる。鉄火丼などの海鮮系であれば、ご飯の上から醤油をかけて食べてしまうというような感じになるのである。



3 丼物の系譜


 さて、ここで丼物を分類してみよう。

 まず歴史的に見れば「江戸時代系」「明治系」「昭和系」というように分かれる。しかし、この分け方にはあまり意味がない。そこで、食べ物の種類で分けてみよう。

 まずは、同じ単語になってしまうが「江戸時代系」なのである。


 「江戸時代系の丼物」というのは江戸時代から存在する丼物のことを言う。具体的には鰻丼、天丼、深川丼である。ちなみに江戸時代は基本的には卵は食べていないので、卵とじ系は基本的にあまり食べられていない。また、寿司海鮮系は、別な分類にするので、ここでは抜くことにする。この丼の分類は、上に乗る「具材」が「煮る」「焼く」「揚げる」などの状況で腐らないようになっており、そのうえで、ご飯そのものにもたれなどをつけて味をつけて食べるというような感じになる。


 ある意味で、「ご飯そのものに味をつける」というのは、炊き込みご飯の内容に近いものであり、ご飯そのものにコメそのものの味ではなく別な味をつけて食べるというような感じになる。そのことによって、新たなたれや醤油などの調味料をかけずに、具材とご飯を食べることができるようになっている。


 ちなみにこのような書き方をすると「山椒」や「七味唐辛子」などはどうなのだというようなことを言われるので、先にあえて言うようにしておくが、それらは「薬味」であって「調味料」ではない。

 この丼物系は、基本的に「長時間そのままにしてあっても大丈夫」というような感じになっている、単純に具材も調理してあるなど、調理済みの物が味がついて食べるようになっている。そしてそれがお弁当であれば「冷えてもおいしいように味を濃くする」というような感じになるのである。


 「寿司海鮮系の丼物」は、寿司になっているような海鮮のネタをそのままご飯に乗せるタイプである。単純に「鉄火丼」や「イクラ丼」「うに丼」「海鮮丼」「アナゴ丼」などがこの中に当たる。基本的に、この内容はアナゴ丼などの例外はあっても、基本的には醤油などの調味料を上からかけるので、なかなかお弁当では成立しない。ちなみに現在は丼やお重などで鉄火丼を出すところがあるが、昔のわっぱや竹のお弁当箱ではかなり厳しいということになる。


 この寿司海鮮系の丼物は、「ご飯」が「普通のご飯」なのか「酢飯」なのかということが非常に大きな違いになる。まさに、酢飯のご飯であれば「寿司系」になり、普通のご飯になれば、醤油など調味料に少し工夫を加えるような感じになるのではないか。

 次にあげられるのが「卵とじ系丼物」である。これは、卵を食べ始めたときからできることになる。


 しかし日本の場合、仏教の影響から卵を食べる習慣はなく、奈良時代くらいに「加比古」「滋養強壮の薬」として、成立していたということになるのである。その名残に、風邪で熱が出たときの「卵酒」などがあるのは御存じの通りだ。卵料理が出てくるのが1837年から書かれた百科辞典、「守貞謾稿」あたりであろうか。それまで及原西鶴の劇作に入っているというようなものもあるが、なかなか卵料理かどうかを判断するのは難しい。「守貞謾稿」の記述を見てみると「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」「卵とじうどんにする」など書かれており、卵の値段も書かれている。まあ、このころには食べられていたということになるのではないか。


 しかし、 かけそばが16文だった時代に、水煮したゆで卵が1個20文とあるので、現在の価格にすれば卵一個が600円くらいになる。まあ、庶民の食べ物ではない。牛乳も、ペリー来航後ハリスが来て初めて飲んだといっているのであるから、日本での肉食の歴史は非常に浅いのだ。そして明治30年くらいになって上海から安い卵が入ってくるようになったので、それから卵料理が一般に広まった。


 さて、その卵料理の中でも「卵とじ」といえば「親子丼」と「かつ丼」が定番。他に「他人丼(開化丼)」「キツネ丼」「卵丼」などがある。確証はないが、調べものによると、「牛丼」(1890年代)、「親子丼」(1891年)、「かつ丼」(1920年)が誕生し、丼文化は急成長した。「丼」の定番は、この時代にほぼ産まれている。戦中は一時丼文化も停滞したが、高度成長期には遅れを取り返すように「ビフテキ丼」(1950年代)が作られているという。


 ここに出てきた「牛丼」と「ビフテキ丼」そのほか「からあげ丼」「焼き鳥丼」などがあるのが、もう一つのカテゴリーである「洋食系肉丼の系譜」のカテゴリーだ。実際に、卵とじでもかつ丼や鶏肉を使っているのであるが、しかし、やはり牛を食べ始めたところでかなり異なる内容になってきている。卵とじをすることによって和風の味、それも出汁をもって味付けをしているのに対して、ビフテキや、牛丼(牛鍋・すき焼き)、焼き鳥など、おかずをそのまま乗せた形になっている。

 この丼物の系譜を考えながら、その歴史を見て、現在食べている丼物が、完成系なのか発展期なのか、あるいはまだ始まりたてでこれから改良のよりがあるのかということを考えないといけないのである。

 さて、今回の題材は「天丼」である。



4 神保町という「大学生と文豪の町」


 天丼のおいしい店というのはかなりたくさんあるし、また、有名なところも少なくない。あえて名前を出す気はないが、江戸時代に魚河岸のあった「日本橋」、下町の味の残っている「浅草」など、様々な名店がある。もちろん私自身、結構天丼は食べているほうだ。しかし、やはり当然のことながら、おいしいという店すべてで天丼を食べているわけでもない。そのために、あくまでも私の食べた天丼の中だけで話をしてみる。


 その発祥は、新橋にあった「橋善」の前身である蕎麦屋の屋台(1831年創業)を嚆矢とする説や、現存する店の中では最古の天麩羅屋とされる浅草雷門の「三定」(1837年創業)を先駆けとする説が唱えられている。また、近代的な天丼としては、天丼は1875年(明治8年)ごろに神田鍛冶町の「仲野」という店舗で発明されたものとしている。


 揚げたての天麩羅を煮立てた甘辛い丼つゆにどっぷりと浸して(「くぐらせる」と表現する)丼飯に乗せるのが伝統的な江戸前天丼の作法であるが、全国的には天麩羅を乗せてから丼つゆを回しかけるスタイルのほうが多くみられる。丼つゆは通常、出汁・醤油・みりん・砂糖などを合わせて煮切った濃い目のものが使われる。店によっては天麩羅が真っ黒となるほど濃いものもあり、黒天丼と呼ばれ名物となっている例もある。


 逆にこれだけ種類もあり、なおかつ「元祖」という店がたくさんあるというのは、当然に、「天丼」そのものがかなり広く出回っているということになる。天丼の価格は明治20年には3銭、大正8年は25銭、昭和12年は40銭程度と、かなり庶民的な値段であり他の丼物に比べてかなり広まった丼物であったということになる。


 当然に、「庶民的な味」ということは、貧乏な学生やそのほかの者達も食べるということになるのである。ある意味天丼のような食べ物、つまり天麩羅と、たれと、そしてご飯の組み合わせの物は、単純に素材などにこだわれば、かなりさまざまなものがおいしくなる。しかし、「高い値段を出して高い素材で作ればおいしくなるのは当たり前」なのである。そんなものではなく、庶民的な街の庶民的な店で、庶民的な味を適度な「誰でも手が出せる値段」で楽しむということが最も重要なのではないか。もちろん高級品というのも非常に良いものと思うが、現在で言えばサラリーマンや学生がランチで手が出る範囲の食事がもっともよいのではないかという気がするのである。


 そのような「庶民派」の街といえば、ある意味で「神田」と「上野」そして「神保町」ではないか。


 神保町は、江戸時代の元禄2年(1689)、幕臣の神保長治が神田小川町に邸地995坪を賜ったことに由来していると言われている。江戸が東京府となった後の1872年(明治5年)、現在の神保町一丁目に「表神保町」「裏神保町」と「猿楽町」が、神保町二丁目に「北神保町」と「南神保町」が置かれた。「裏神保町」は1922年(大正11年)に「通(とおり)神保町」へ改称された>。


 1913年(大正2年)、当時は小川町を広域地名としていたこの辺り一帯が、大火で焼失した。神田高等女学校(現:神田女学園中学校・高等学校)教員だった岩波茂雄が焼け跡に古書店を開き、同店内で夏目漱石の作品や『哲学叢書』の出版販売も行って大成功を収めた。 これが岩波書店の起こり。それまで客と店員のかけひきで曖昧に決められていた書籍の価格が、この岩波書店によって小札通りの値段で本が買えるようになったのだ。


 岩波書店では客から書籍が他の書店より高いといわれると、売らずに奥に引っ込め、他店の価格を調べ、それより安い正札をつけて店に並べたのである。岩波の正札販売は次第に客の信頼を集めて、やがて正札販売は古書店街じゅう に広がっていった。


 1921年(大正10年)、神田区駿河台に「文化学院」が開校。音楽・美術・舞踊など芸術関係書が、濃紺くるみの学術書やけばけばしい猥雑本とともに書店の軒先に彩りを添えるようになり、「ない本はない」と言われた。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』によれば、太平洋戦争中、アメリカ軍が「神保町の古書が焼失することは、文化的に極めて大きな損失である」として、この一帯のみ空襲を避けたという。しかしこの説は都市伝説だともいわれており、確証は疑問である。


 神保町の周辺には、1970年代まで、私の母校である中央大学もあり、また、現在でも日本大学、明治大学、専修大学など多数の大学がある。また出版社も多いために、多くの文豪が集まる場所としても知られる。


 学生と文豪。いずれも貧乏な人が少なくない。また食べるものや生活そのものよりも本や資料を重視するところがある。そのような人が集まる場所には「おいしい、庶民的な料理店が多く集まる」とされている。


 その中の一つが「天麩羅 はちまき」である。



5 はちまきの天丼



 神田駿河台、JRのお茶の水駅お茶の水改札口から、明治大学の方に向かって、坂を下り切ったところが「駿河台下」の交差点。そこの前に、三省堂神保町本店がある。その三省堂の真裏に「はちまき」と書いたてんぷら屋がある。間口はそれほど大きなものではないが、昼時に行けば、道の外まで行列ができているのですぐにわかる。


 その近辺には珍しい「古い」建物であり、また換気扇は回っているが、油のにおいがしない。これは、毎日新しい油を使っているということが想像できる。

 実際に並ぶのはあまり好きではないが、この店は別だ。普通に並ぶ。それ以外にここの味を味わう方法はないのである。


 昭和6年創業という。司馬遼太郎の都市伝説ではないが、まさに、この場所は空襲を逃れているというので、古い家が残っていてもおかしくはない。もちろん、昭和6年の建物ではない。しかし、すぐに古いということはよくわかる。


 中に入ると、古い写真がある。昭和20年代からは毎月27日に集まる「二十七会」が店の二階で開催され、数々の文豪が通ったという。中には江戸川乱歩など、そうそうたるメンバーの写真がある。多くの文豪が、この中において、天麩羅を味わったことが非常によく伝わってくるものである。


 池波正太郎しかり、司馬遼太郎しかり、江戸川乱歩しかり、川端康成しかり、遠藤周作しかり、島崎藤村しかり、そのほかの多くの文豪もそうであるが、実際に、日本の文豪というのは「酒」と「おいしいもの」とくに「和食」に関する造詣が深いことがある。ましてや、私もそうであるが、取材旅行などで日本中動き回るので、おいしいものをよく知っているのである。



 さて、そのような文豪たちが「愛した」とあるので、なかなか興味深い。もちろん、彼らはディナータイムで天麩羅を肴に一杯やっていたと思う。しかし、より庶民派な私はそのようなことはしないのである。

 メニューは天丼、上天丼、野菜天丼、海老穴子天丼、そして天麩羅定食と海老穴子天麩羅定食である。もちろん「天丼」を頼む。



 ちなみに、海老穴子天丼となるとこうなる。写真は私が撮ったので、あまりうまいものではない。まあ、ここで写真を見て食べたつもりになるのではなく、実際に行って食べてもらいたい。



 さて、天丼というのは、何度か上に書いたが、「天麩羅」と「ご飯」と「たれ(天丼のたれ)」の三つの組み合わせとその相性である。そして、食べる人の「味覚」と「好み」ということになる。


 天麩羅に関しては「サクサクした衣」と「衣の中の食材」の相性ということになる。天麩羅定食の場合、そのような感じになる。基本的には、ご飯そのものが甘いので、衣は油の味、そして食感と油の風味がある。米飯が甘いので、この場合は塩など「塩味」の強いものか、あるいは、天つゆも甘味の少ないものを使う。


 しかし天丼の場合は、そのような単純なものではない。実際に食べる人の「味覚」と「好み」の問題がある。単純に考えた場合、「天丼」の場合は「やわらかい衣」が好きな人と、天麩羅のような「サクサクの衣」が好きな人がいる。だいたいの場合、サクサクの衣が好きな方が多いような気がする。しかし、やわらかい衣を好む人もいるのだ。その場合、少し時間をおいて、ご飯の湯気を多めにすれば衣が柔らかくなる。つまり、ご飯を熱いときのままで天麩羅を乗せるのか、あるいは、ご飯をある程度ぬるく冷ましてから、天麩羅を乗せるのかによって異なるのだ。つまり、「サクサクの衣の天丼」の方が、ご飯ぬるく冷ますという手間がかかる。


 それだけではない。天つゆというか天丼汁をかけるのであるが、その天丼汁も「水分」を少なくして「醤油分」を多くする。それと同時に、味を濃くしすぎないことが重要であるし、同時に、塩分を強くするのではなく甘味をつけるような形になる。

 ここから、天麩羅をくぐらせるか、乗せてからかけるかの違いが出てくるし、また、天麩羅において、味が変わってくるのである。


 さて、ここはちまきの天丼である。

 色々言ってきたが、実際に「サクサクの衣の天丼」である。つまりご飯はそれほど熱くないし、また、天麩羅もご飯の湯気で蒸されないように、間をあけておいてある。これは、天麩羅が少ないという意味ではなく、ちょうどキャンプファイヤーの薪の組み方のように、空気がよく抜けるようになっている。


 その組んだ天麩羅の間から、湯気が抜けてくるのであるが、その湯気が天麩羅の吸った新しい油の香りと、天丼汁の淡い甘く少し醤油の香ばしさの残る香りを含んで上がってくる。まあ、そのおいしそうな香りというのは、食欲をそそられるものである。なんといっても、鰻のたれの焼ける匂い、焼き鳥の煙の匂いという意味では二大巨頭、そこにステーキや焼き肉などの肉の焼ける匂いが入ってくるのだが、この三つは「匂い」というような感じであり、仄かに食欲をそそるのではなく、からだ中を巻き込む感じの匂いになる。しかし、この天丼の湯気というのは、仄かに鼻孔の粘膜をくすぐる程度で、決して体中を巻き込まない。それだけに、香りを認識してから「食べたい」と思うまでに一瞬のスキができる。ちょうど頭の中で香りが反応し、そして、その香りがそのまま胃袋に伝播し、胃が動き出すまでに時間がかかるような感じだ。天丼という「庶民派」の味であるのに、なぜかこの一瞬の時間であるにもかかわらず、その時間が「優雅」を感じる時間なのである。


 さて、まずは味噌汁。普通の麩とネギの味噌汁である。この味噌汁がなかなか曲者だ。少々塩分強めの味噌を使っているようで、一口飲むと、口の中に塩味が広がる。ちょうど鼻孔を甘い香りの天つゆと油の香りが通った後だけに、その味噌汁の塩味が全く違う味を演出してくれるのだ。鼻で感じている味覚と、実際に入ってきた味覚が全く異なる場合、人間というのは無意識に、最初に感じた「食べたい」と思った食材を探す。水が飲みたいと思ったときに、コーヒーやビールが出てきた場合、とりあえず一口飲むものの、より一層水が欲しくなるというのはまさにこのことである。


 その「天丼を渇望している胃袋」の欲求に突き動かされたまま、天丼に箸を移す。まず、天丼は、海老とキス、そして野菜が入っている。まずはそのレンコンと下にあるご飯を一口大に箸に乗せて口に運ぶ。レンコンの中は思った以上に固く、その表面の衣のサクサク感と、中のレンコンの新鮮な野菜の感じ、そしてご飯の甘さ、それを統一させる天丼汁という組み合わせを見て楽しむ。レンコンの白、衣の黄色、そしてご飯の「黒」である。本来はご飯は白であるが、天丼汁がかかっているので黒に変色しているその色のコントラストを見て、どんな味になるか、口の中でこれらが混ざった時に、どのようなハーモニーを作り出すのかを楽しみにしながら、口の中に入れる。


 うまい。

 人間は本当においしいときに、他の感覚が出なくなる。ましてや先に味噌汁で違う味を味わって、天丼を渇望している最中に天麩羅と天丼汁のかかったご飯を口の中に入れたのだ。百年の恋が実ったような感覚である。


 レンコンというのは、前歯で噛むと「サクサク」とした食感になる。そのレンコンの硬さが、衣の固さとの違いでなかなか面白い。同時にレンコンの中の方は油も吸っていなければ、天丼汁も吸っていない。まさに素のレンコンの味。そのレンコンが、油で適度に温められ、そして衣で蒸された感じである。要するに「よくふかしたレンコンを衣でくるんだ感じの食べ物に、仄かに甘くした天丼汁をかけた」というような感じだ。そこにご飯の甘さと、天丼汁の油がうまく混ざって、口の中に広がる。口の中から鼻孔の方にその香りが抜け、湯気を感じたときと同じ食べ物であることを脳の中枢が認識するのである。欲しいものを手に入れた安心感。それがおいしさを倍増させる。


 野菜を先に食べて海老。海老は中のぷりぷり感と衣のサクサク感を味わう。安い天麩羅を食べると、衣と海老が分離してしまっている。しかし、ここはちまきの天麩羅はそのようなことはない。まさに、天麩羅とはこういうものだという感じだ。油の温度などを聞いているわけではないが、よほどうまく揚げているに違いない。それと同時に、海老は、海老自体が甘いだけではなく、海老は身の中に隙間が多いので、当然にその中に油を多く吸ってしまう。つまり、油がうまく切れているということが重要であることがわかる。油がうまく切れていて、なおかつその油をきった衣が、天丼汁をうまく遮ることによって、海老はプリプリ感を残したまま、他の味に染まることなく、そのままの形で、出てくるのである。まさに芸術。その「味がしみていない甘さの海老」「天丼汁の染みた衣」「甘いコメ」「少し甘いコメにかかった天丼汁」という組み合わせだ。


 甘いと一言で書いているが、海老特有の新鮮な身が持っている甘さ、コメの奥歯でよく噛んだ時の糖質、そして天丼汁のみりんや煮切った酒などで醤油などとともに出された「甘味」と、三つの甘味がうまく混ざりあう。あまいといっても「砂糖」の甘さではなく、すべての食材が持っているほのかな甘みを他の味が引き立てているというような味わいが楽しめるのである。


 そして、野菜を食べた後の海老の天麩羅であっても、その油の臭さがなく、仄かな香りが残る。非常に素晴らしい。なんとおいしいのであろうか。

 最後にキスを食べる。私は海老ではなく最後にキスを食べる癖がある。白身の魚であるから、あまり味が染みていない感じがある。その白身の魚の衣がうまく身になじんでいる。さすがに衣のサクサク感はこの頃には無くなっているのであるが、しかし、その衣が十分に吸った今までの「湯気」とその香りが、天丼の最後を占めてくれるのである。まさに最初から最後まで、天麩羅の湯気と香りで楽しませてもらった感じだ。


 よく天麩羅を表現する人の中で「中の身が大きい」というようなことを言う人がいる。実際に、この中の身と衣のバランスが崩れて、衣そのものが大きすぎるような場合は悲しくなることもあるが、実際は天麩羅の場合「衣も芸術の中の一つ」であり、衣そのものでも、十分においしく頂ける。ある意味で関東の「たぬき蕎麦」のような感じである。その衣そのものの風味がおいしいかどうか、そして天つゆやご飯とあっているかどうかなど、それらのバランスが計算しつくされていることこそ、非常に重要なのではないか。そのような「値段に反映されない技術をどこまで追及しているか」ということが、「庶民の味のおいしさ」の中心にあることは間違いがない。その「バランスと、値段に反映されない技術」は、ある意味で「料理職人の心」というのが最も重要なものではないか。


 この天丼にはその心が反映された「味」となっており、そして、その味をわかる人々に今も支えられているのである。


 いや、おいしかった。

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