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宇田川版グルメリポート 第3回 京都天橋立吉野茶屋「知恵の餅」



1 天橋立


大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

                           小式部内侍


小雨はれ みどりとあけの 虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波

                           与謝野寛


人おして 回旋橋の ひらく時 くろ雲うごく 天の橋立

                           与謝野晶子


はし立や 松は月日の こぼれ種

せきれいの 尾やはし立を あと荷物

                           与謝蕪村


一声の 江に横たふや ほととぎす

                           松尾芭蕉



 いずれも日本の名だたる歌人・句聖が詠んだものである。天橋立、日本三景の中の一つである。日本三景といえば、「安芸宮島」「陸奥松島」そして「丹後天橋立」となっている。松島は先代からすぐ近く、あの松尾芭蕉が、あまりの美しさに言葉を失い、句も何も言えなかった。その情景を「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだという。

ある意味で、しっかりと句を詠んだということは、天橋立は松島よりも感動が薄かったのであろうか。まあそのようなことを言う必要はないのだが、ちょっと気になるところである。



 それにしてもかなりの混雑であった。

 やはりゴールデンウィークなどに行くというのはなかなかチャレンジャーなことをしてしまった。正直なところ改めて行った方がどれほどよかったか。


 さて、このことを見てわかるように「日本三景」はすべて「海」であることがわかる。

意外と知られていないが、この「日本三景」すべてが「海産物」それも「貝類」の産地である。特に「牡蠣」が共通の名産。松島には牡蠣バーガー、橋立には牡蠣ピザ、宮島は焼き牡蠣が名産であり、いずれも負けず劣らず非常においしい。ある意味で「牡蠣」や「浅蜊」がおいしいというのは「養分の豊富な水があり、なおかつ海流が激しくない」という条件が必要である。畑と同じで「土」ならぬ「水」が肥えていて、なおかつ、「風」ならぬ「海流」が激しくないところでないと、うまく育たない。

そういわれてみれば松島は島が多く、絶景となっているが同時にその島が多いために水が凪いでいる。宮島はそもそも瀬戸内海であるし、天橋立も海を遮るようには間が続いているので水が非常に凪いでいるのである。そのうえ、上流の土が肥えていている。


 土が肥えるというのは、ある意味で植物が豊富であるということが重要である。天橋立の上流には、何しろ「鬼が出る」といわれる大江山があるのだから、人が開発するような話は全くない。

そのように考えれば、樹木、特に広葉樹と針葉樹がバランスよくあり、その木々の落とす木の実や葉、そして森に住む虫や鳥などの様々なものが養分として水と一緒に海の中に流れ込むのであるから、最高の養分を持った肥えた水が入ってくるのである。


 このように、天橋立が「景観」だけではなく「おいしいものの産地」特に「海産物の産地」と考えられることが理解できるのではないか。日本人の「素晴らしい景観」というのは、間違いなく「水=青」「砂=白」「林=緑」そして太陽として光のつまり「昼=白」「夕=茜」のコントラストが素晴らしいということになるのである。そしてその景観のすばらしさは常に「静」の中にあり、その中に少し動くものがあるという状況がある。激しさをもって素晴らしさとはしていないのが日本の特徴であるといえよう。その景観を見るだけで多くの人が素晴らしいというに違いない。


 ところで「なぜグルメなのに景色の話をしているのか」というようなことを言うと思う。

 しかし、よく考えてもらいたい。日本の料理の基本は「盛り付け」「色合い」である。単純に日本人の料理は「五感で楽しむ」ことが基本だ。つまりは「視覚=色合いや盛り付け」「聴覚=歯ごたえの音など」「触覚=歯ざわり」「嗅覚=香り」そしてそれらを総合した「味覚」ということになる。

その中の「視覚」つまり盛り付けや色合いのすばらしさは、必ず「絶景」といわれるものが基本になっているのだ。この色合いや日本の素晴らしさや自然の色合いを学ぶことこそ、実は日本の料理と味覚、そしてそれを味わうグルメの基本なのである。

 その意味で、天橋立などは、「景色そのものがすでに視覚の部分を受け持っている」のであり、その分、盛り付けなどよりも味そのものにうるさくなるということになる。



2 文殊堂


 その天橋立にあるのが「文殊堂」である。

 正式には天橋山智恩寺。臨済宗妙心寺派の寺院であり、その本尊は文殊菩薩となっている。

この地を「九世戸」というので「九世戸の文殊」とか別の地名の「切戸の文殊」といわれる。


 「九世戸」というのは「能」の演目である「九世戸」から引いてみると『帝の臣下が文殊菩薩勧進のために天橋立を訪れ、なぜ九世戸というのかとうことを地元の漁民に聞くと、「昔この地で暴れていた竜神を鎮めるために、ここに天神七代、地神二代、合わせて九代かけて、天橋立を作って文殊菩薩をこの地にお迎えし、竜神を鎮めたところだからだ」と答えた。その後「今日はちょうど竜神と天神が御燈を灯し、天地を結ぶ神事があるからぜひご覧ください」といって姿を消したという。』


 この能「九世戸」の原作となったのが、現在も智恩寺にある「九世戸縁起」であり、天橋立の生成と文殊信仰との関係が説話的に述べられ、醍醐天皇の御時に勅願寺として文殊菩薩を本尊とする智恩寺が建立されたと書いてある。


 一方この智恩寺に関しては、寺伝によれば、808年(大同3年)の平城天皇の勅願寺として創建されたという。平城天皇といえば、第51代天皇。「延暦25年(806年)3月17日に父帝が崩御すると同日践祚(せんそ)。改元して大同元年5月18日即位。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。父桓武天皇の政治の見直しを進め、その中で、平安京への遷都の無効となら平城京へ都を戻すことを主張した人だ。しかし、808年(大同3年)に病気を発し、翌809年(大同4年)に弟の嵯峨天皇に皇位を譲り、自ら奈良平城京に向かった。その時に京都に対して乱を起こしたのが「藤原薬子」であり「薬子の乱」といわれる。この薬子の乱を収めたのが征夷大将軍坂上田村麻呂である。


 さて、この智恩寺は寺伝によれば、平城天皇が病気を発した時に勅願寺として建てられたという。当然に、病気平癒ということがあったのではないか。また、桓武天皇が平城京から平安京に都を移したのは、平安京の外宮に位置していた寺社仏閣の力が強くなってしまい、政治がまともに機能しなくなったからである。仏教の影響が大きくなったというのは、もっとも有名なのは弓削道鏡事件が代表的。まさに僧侶が天皇家を戦勝するようになっていたのである。

そのように考えると現在の京都は「平安京」のなかに寺が入っていない。すべて平安京を取り囲む外側に寺があるのが特徴である。もちろん、のちの世に徐々に寺ができる。本能寺などは京都の都の中に入っているのであるが、それは桓武天皇の時代とは大きく異なるのである。


 その息子である平城天皇が、わざわざ勅願寺を作ったということは、まさに桓武天皇に対する対抗心ということが言えるのかもしれない。もともとは早良親王が乞うた志位の予定であったが早くに薨去してしまったために、平城天皇が即位することになった。

当時天皇家に近い皇族は、天皇家を分裂させないために出家するのが普通であったので、その分で仏教に帰依していた人は少なくない。そのような意味で平城天皇が仏教に帰依していたのはなかなか面白い。

 その仏教に帰依していた平城天皇は、このほかにも七宝山 本山寺 (真言宗、香川県三豊市) などがある。


 さて、このような中で、文殊菩薩を本尊としているのは非常に珍しい。奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)などとともに日本三文殊のひとつとされる。逆にそのように言われること自体、文殊菩薩を本尊としているところは少ないということになろう。文殊菩薩は、釈迦如来の横に普賢菩薩とともにいるようになる。


 ある意味で「西(大陸・または天上界)からは知恵がくる」というような信仰があったのではないか。つまり、「信仰」が「御利益」を求めるということになるのであろう。このことから大同3年の平城天皇の「病」とは、まさに「改革に対する抵抗とそれに対する精神的な病」もっと言えば「知恵があれば解決ができることであった」ということではなかったか。そのように考えるのが普通なのではないかと思われるのである。


 さて、「知恵」を使うと「頭が糖分を欲しがる」ということになる。

 そこで「菓子」が出てくることになるのではないか。



3 知恵の餅



 智恩寺文殊堂の山門の前には、四件の茶屋がある。茶屋といっても本当のお茶とお菓子を出す場所であって、京都市内の「茶屋遊び」の茶屋とは全く異なる。そこのすべてが「知恵の餅」を売っている。


 その中の山門に最も近いところが「吉野茶屋」である。ちょうど令和元年の十連休の真っただ中で行ってしまったので、かなり忙しそうであったが、やはりまずこの「吉野茶屋」に入って知恵の餅を注文する。


 お盆の上に松の絵柄のお皿、そしてお茶と知恵の餅が三つ出てくる。

 まずはお茶を一口。


 「あずき茶」である。ほのかな香りとほのかな甘み、そしてよく炒って小豆で少々の香ばしさが、うまく人肌のお湯の中でかみ合った感じだ。このような甘味と一緒に出てくるお茶というのは、基本的には口の中の甘みをすべて拭い去るものであると思っていた。京都などの茶道ではお茶の渋みや苦みの調和材として干菓子などを食べるのであるが、ここのお茶は違う。もちろん、「知恵の餅」が主役であるが、ある意味でその風味、その香り、そしてその香ばしい味、どれをとっても「脇役を超えた脇役」であるといえる。やはりお茶がおいしいと、歌詞が引き立つ。口の中を少し香ばしい小豆の味に変え、そして鼻孔の奥に小豆の香りを付けた後に、「主役」の登場である。


 さて主役。

 まずは白い餅の上にあんこが乗った感じである。ある意味で見た目は何の変哲もない「あんこ餅」である。逆に「変哲がない」だけに「味覚」の勝負となる。

 見た目で言えば、「お盆の黒」「皿の茶色」「お茶碗の濃茶色」に「餡子(小豆)の赤」そして「餅の白」という色合い。全体が落ち着いた色の中で、お餅の白さがかなり際立つものだ。

しかし、その白の色を小豆の赤で隠してしまっている感じの見た目である。外の世界が緑、白、青が基調となっているだけに、「黒」「赤」が基調となっているこの盛り付けはなかなか面白い。

ある意味で「天橋立」が頭の中に残っている人に対して、まったくその中に出てこない色をうまく使っているということになる。お皿、またはお盆の中だけで世界を表現しているのではなく、天橋立という全体の空間の中の一つのパーツとして「知恵の餅」が存在しているということがよくわかる。

その盛り付けは、全く盛り付けなどを気にしていないかに見えて、実は、景色全体をかなり意識した内容になっている。この餅を食べることによって、食べている本人も「天野芦立の中の景色の一つ」になることができるということを意味している。浮世絵などに広重や北斎が描いた人物像そのものに自分がなるような感じだ。


 さて、何度も書くが、この手のお餅は、基本的には「甘い」のが普通だ。

それは通常「抹茶セット」などとして売られていることからわかるようにお茶が主役であり、お菓子は添え物なのである。それに対して、この知恵の餅は餅が主役である。つまり、勝負は餅自身である。


 餡子と餅の二つのパートに分かれる。まずは餅と餡子を一緒に食べてみる。

 思ったよりも甘くない。餡子の糖分が少ないというよりは、非常に上品な甘さでなおかつ小豆の香りが強く感じる。甘いのは餡子だけではない。餅そのものもかなり甘い。餅とか団子というよりは、「白玉」に近い、でも「白玉」ではない感じである。

団子は、古くは焼団子や団子汁の形で主食の代用品として食せられ、材料も粒食が出来ない砕米や屑米や粃、雑穀の場合は大麦・小麦・粟・キビ・ヒエ・ソバ・トウモロコシ・小豆・サツマイモ・栃の実などを挽割あるいは製粉したものを用いて団子を作った。今日でも地方によっては小麦粉や黍粉などで作った米以外の団子を見ることが可能である。


 団子と餅の違いについては、「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である。


 このように考えると、この「知恵の餅」が「団子」ではなく「餅」であることは何の問題もない。「団子」ではないから「仏事」ではなく「祝儀」として食べるものであるということが言える。要するに「楽しいから食べる」のである。

餅そのものが甘いということは、餅米のつきかたがよくまた蒸す時間なども非常に良いバランスでできているという感じがする。本来糖分を混ぜたりということがあるのだが、実際にその糖分の「いやらしい甘さ」ではなく「穀物の持つよく噛むと奥歯の端から出てくる甘さ」である。まさに穀物が甘くなる手前で餅にして、それが糖分の少ない小豆とでんぷん質の強い穀物の甘さをうまく作っているという感じだ。小豆と餅の合わさった歯触りは、なかなか良い感じだ。餡子そのものの その組み合わせの甘さがよい。


 味覚というのはこのような「甘味」であっても五感すべてを満足させてくれるものを日本人は望んでいるということを、あらためて実感させてくれる。視覚の部分は、外の雰囲気である。天橋立をすごくよくやっている。そして、香りの部分は、やはり小豆の香り、そして、乾いた餡子と少ししっとりした歯触りの餅。餡子と餅という二つは、触覚、嗅覚で餅と餡子の二つの種類のハーモニーを味合わせてくれるのである。


 さて、ここでまずは餡子だけを食べてみる。

 餡子は、やはり濃い小豆の香りである。

 そしてほのかな甘味、そしてよほどうまく炊けているのであろう、小豆の香ばしさである。ちなみに、餡子は漉し餡である。こしあんであるのにこれだけの香りと香ばしさを出すのは難しい。女将に聞いてみれば、小豆の皮もすべて細かく粉砕して炊いているという。つまり、餡子そのものの中に「皮」と「身」の二つの要素が入っているということになる。歯ざわりなどは全く粉になってしまっている皮も、炊いたり味をつけたりというような状況になると、当然に、皮の部分と身の部分で異なった味のつきかたをする。

 歯触りは「こし餡」でありながら、味覚は「つぶ餡」というような不思議な味わいができるようになっているのである。もちろん、それ以上は教えていただくことはできないし、教えていただいても書くことはできないであろう。しかし、この皮を細かく砕いて「こし餡」という餡子の作り方は、他ではほとんどない。この味わいは、ここでしか味わえない味ではないか。


 一方「餅」である。

 見た目は白く少し輝いた感じである。これはおいしいというものではなく、少し濡れた感じである。その濡れているというのは、ある意味で「みずみずしさ」ということと同時に、餡子そのものの渇きと対をなすものになる。餡子が特徴がある餡子だけに、常に「対極にあるもの」を組み合わせるというのがおいしさの秘訣ということになるのであろうが、まさに、その「対極」をうまく表現した餅であるということが言える。


 前歯でも簡単に切ることのできる餅であるが、うまく様々な穀物を配合してあるのか、あるいは餅のつきかたが特殊なのか、あるいは蒸し方やふかし方などに何か特別なコツがあるのか、いずれにせよ、前歯で噛んだ時と、奥歯でつぶした時の味わいが微妙に異なる。なんというか、奥歯でつぶした時は、その奥歯の間から甘味がこぼれてくる感じだ。その甘みも、砂糖などのどぎつい甘さではなく、大量の餅の中に存在する甘露を一滴口の中に広げたような感じだ。水の中に主入りの絵の具を一滴落としたように、徐々に甘みが広り、それが口の中いっぱいになった時に、またすぐに口の中の普通の状態に戻てしまう。しかし、「甘かった」「おいしかった」という記憶が残り、それが、胃袋に入ってから再度「帰り味」で甘さが脳に伝わるという非常に上品な甘さを経験できる。ただ、現代人は「瞬間的に味覚を刺激する」というものが必要であり、なかなか「帰り味」を体験することが少ない。


 人間の舌の上には「味蕾」という味を感じるものがある。欧米人の平均は約210といわれているのに対して日本人は540と欧米人の倍以上の味蕾を所有しているのである。その味蕾がありながら、帰り味など良い味を体験できていないのは、食の欧米化と同時に日本人もそのような上品な味を感じなくなってしまっているのではないか。そのようなことを思い出させてくれる味であることは間違いがない。


 最後にもう一度餡子と餅を共に食べてみる。

 やはりうまい。今度は「コラボ」とかそういうことを全く考えず、ただ自分の味わいのためだけに食べる。にこの餅を食べた後もう一度あずき茶を一口含み、口の中に小豆の香ばしさを広げて洗ってから、もう一度味わう。今度は景色を見ながら、そして行き交う人の波を見ながら味わう。いや、いろいろ能書きを言っているが、やはり「おいしい」その一言が最もすべてを伝えるのではないか。その味のすばらしさを、また体験したいと思うものである。

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