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宇田川版グルメリポート 第2回 宮川の鰻重

宇田川版グルメリポート 第2回 宮川の鰻重


1 ウナギ

 皆さんは生きているウナギを見たことがあるだろうか。

テレビで見たという人は少なくないと思うが、実際に生きているウナギはある意味で蛇のようでもあるので、蛇が嫌いであるという人はなかなか手を出すことができないのではないか。


日本鰻

 そもそも表面はぬるぬるしていて、なおかつ長細くてつかめない。まあ、なんといってもなかなか食べようという気の起きるものではないのである。

 とりあえずウナギについてまずは知ってみよう。


 ウナギ(鰻)とは、ウナギ科(Anguillidae) ウナギ属(Anguilla) に属する魚類の総称である。世界中の熱帯から温帯にかけて分布する。ニホンウナギ、オオウナギ、ヨーロッパウナギ、アメリカウナギなど世界で19種類(うち食用となるのは4種類)が確認されている。電気ウナギなどというような、電気を発するものから、ヤツメウナギのような薬などになっているものまでさまざまである。ちなみに、「二ホンウナギ」はかなり高級魚とされてしまっていて、最近ではあまり漁獲が少ない。そこで、牛丼屋チェーン店などが夏に出している「安いウナギ」は、「フランスウナギ」などであるとされている。


 しかし、実物を見るとなかなか食べる気がしない。元の生きている姿の見た目はグロテスクだが食べるとうまいというのは、ウナギ・ナマコ・シャコ・ハモなど様々あるが、その中でもなかなか手が出にくかったであろう。まあ、日本で初めて食べた人はなかなか勇気があったのか、あるいは、よほど食べるものがなかったのではないか。

 では日本ではいつごろから食べられているのであろうか。

 日本の文献では奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。


 ちなみに、この時代には名前がついていたということは、すでにウナギが食べられていたというようなことではないか。一応言うと、日本人の食文化にウナギが登場したのは新石器時代頃であるとされる。というのも、その時代の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、新石器時代からウナギが食べられていたとされる。もちろん、ウナギの調理方法などはわからない。醤油もみりんもない時代であるからさすがにかば焼きはなかったのではないか。当時はある意味で「川の中の蛇」くらいにしか考えていなかったかもしれない。


 京都大学がデジタル公開している万葉集(尼崎本)では、万葉仮名の隣にかな書きがされており、「武奈伎」の箇所に「むなぎ」のかな書きが充てられている。


石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫

(石麻呂に私はこう言った。夏痩せにはウナギがいいらしいから、獲ってきて食べたらよい)


痩々母生有者将在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河尓流勿

(痩せても生きていられればよい。ウナギを獲りに行って、川に流されるな)


 いずれも大伴家持の歌である。ある意味で、この時代からウナギは「スタミナ食」であったことがわかる。「夏痩せにはウナギ」などというのは、スタミナ食として存在することが明らかなのである。


 まあ、ウナギの形状からすると、なんとなくわかる。日本人は「粘るもの」「長いもの」「まきつくもの」に対して、スタミナと粘りを感じる。現在もあるのが「マムシ・ドリンク」などが滋養強壮に良いとされているが、昔の人は、栄養素などウナギや蛇に含まれる栄養素などを分析することはなかったので「長いもの」「粘りのあるもの」を食べると滋養強壮に良いというのは、見た目のイメージと経験上の物でしかなかったはずだ。そのようなことで根拠を挙げると「蛇酒」がある。田舎に行くとマムシなどを酒の瓶の中に入れた飲み物だ。基本的に酒は「神の飲み物」とされていたことから、そこに「地の物」を組み合わせることによって、人間が様々なところから力を得ることができると信じられていた。蛇酒に関しては、記録として残っている範囲では最も早いものとして中国の西周朝(紀元前771年)で飲用されていたことが確認できる。紀元前300年から紀元200年頃にまとめられたとされる医学書、神農本草経にも蛇の薬効に関する記述が残されている。少なくとも中国の影響を大きく受けた日本は、「蛇に似た長いものはすべて滋養強壮に効く」と考えておかしくはない。そのために「ウナギ」は「蛇よりも安全に食べることができるスタミナ食」となったのに違いなかろう。


 平安末期、藤原の時代が終わって、院政の時代になってくると「武奈伎」が徐々に「ウナギ」というようになってくる。

 ムナギの語源には、

 ・ 家屋の「棟木(むなぎ)」のように丸くて細長いから

 ・ 胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から

 ・ 料理の際に胸を開く「むなびらき」から

 ・ この他に、「ナギ」の部分に着目して「ナギ」は「ナガ(長)」に通じ

  「ム(身)ナギ(長)」の意であるとされており、「ナギ」は蛇類の総称であり、

   蛇・虹の意の沖縄方言ナギ・ノーガと同源の語である とされている。


ちなみに 天叢雲剣は「蛇の剣」といわれているのである。「nag-」は「水中の細長い生き物(長魚<ながうお>)」を意味する。この語根はアナゴやイカナゴ(水中で巨大な(往々にして細長い)魚群を作る)にも含まれているなどとする説もある。


 ウナギに関して、現在も少し残っているが、近畿地方の方言では「まむし」と呼ぶ。

 このように関がてえも、ウナギは、「蛇」「マムシ」の同じようなものと考えられており、蛇が滋養強壮に効くというような感覚から、同類のウナギも滋養強壮に効く問うような感覚になったのではなかろうか。


 まあ、俗説として江戸小咄では、「鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ」といった地口が語られている。また落語のマクラには、ウナギを食べる習慣がなかった頃、小料理屋のおかみがウナギ料理を出したところ案外美味だったので「お内儀もうひとつくれ、おないぎ、おなぎ、うなぎ」というものがある。この辺の話は、江戸時代に後になって作ったものではないかという気がしてならない。ただし、ウナギを庶民職としてあまり全国ではなかったのではないかという気がしている。

 まあ、いずれにせよ、ウナギは古くから日本人の食卓に上った「スタミナ食」であったと考えられている。



2 蒲焼


 ウナギといえば蒲焼である。ウナギの食べ方は本来刺身もあれば、丸焼きもある。また白焼きなんかもあるのだが、やはりウナギは蒲焼ということになるのではないか。

 ちなみに蒲焼といえばウナギを指すことが多いが、実際にはサンマやアナゴなど蒲焼がおいしいとされるものは少なくない。基本的にサンマの蒲焼などは缶詰で売っているのでかなり手軽に食べることが可能だ。

 では「蒲焼」とは一体何なのであろうか。 


 「蒲焼」は「身の長い魚を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから濃口醤油、みりん、砂糖、酒などを混ぜ合わせた濃厚なたれをつけて焼く魚料理」というように定義される。


 「蒲焼」の語源については諸説ある。

 ・ 蒲の穂に由来するという

 ・ ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つ調理方法が確立する以前の、

   串刺しする調理法の完成した状態が蒲の穂に似ていたからとする説。

 ・ 『大草家料理書』では丸のまま縦に串刺しにして醤油と酒で調味し

   焼いて調理されていたことが記されている


(なお、『大草家料理書』の成立時期について『日本料理由来事典』及び『衣食住語源辞典』では江戸時代初期とされているのに対し、『図説江戸料理事典』では『大草家料理書』は室町時代の書であるとしている)。


 ・ 『大言海』では形状が蒲の穂に似ていたことから付いた

   「蒲鉾焼」の略形であるとしており、「がま焼」あるいは

   「かま焼」の転訛であるとする説もある。

 ・ 蒲の穂説をとる資料には、橘守部『俗語考』、喜田川守貞『守貞謾稿』、

   久松祐之『近世事物考』が挙げられる

 ・ 樺の木に由来するという説

 ・ 焼いた時の色や形状が樺(カバノキ)の皮に似ているというものである

   (黒川道祐『雍州府志』、菊岡沾涼『本朝世事談綺』)。

 ・ 焼いている香りが早く伝わることからついた「香疾焼」(かばやき)に

   由来するという説

 ・ 中山道の宿場町、浦和で町人が旅人に出したからとする説


 まあ、様々な説があるが、やはり蒲焼と言えばウナギだ。


 ウナギの蒲焼はある意味でその代表格であるといえる。

 「串打ち三年、割き八年、焼き一生」と言われるように、最適な焼きは難しく、この技量は長い修業によって得られるものとされている。それだけに、同じ店に行っても同じ職人の手にかかってもウナギはなかなか違う。多分このグルメリポートでも他にも何回もウナギが出てくると思うが、その都度全く違う感想になるのではないかと思う。


1399年(応永6年)に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「蒲焼」という言葉が登場し、調理法も記載されている。しかし、その蒲焼は現在と異なるものであった。まあ、蒲焼と言っても現在、関東と関西では全く異なる内容である。背開きと腹開きで違うし、蒸してから焼くか、あるいはただ焼くのか、それによっても全く異なる。当然に地域も時代も異なるのであるから全く異なる料理でおかしくはないだろう。


 ちなみに、蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方、つまり万葉集などの時代は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々1匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるというものだったらしい。当時は卵も「加比古」という名前で、薬品としてしか食べなかったので、ドジョウの柳川鍋のような食べ方もなかった。ちなみに現在中国の貴陽市などにおける蛇懐石料理で出てくる「蛇料理」は、まさに蛇をそのままぶつ切りにして、味をつけてい焼いているので、それに近いものであると思う。まあ、このように比較しても、蛇懐石を食べたことがある人が少ないので、あまりイメージができないかもしれない。だから一応写真を貼っておくが、あまり見た目の良いものではない。


蛇懐石の一品


1661年(万治4年・寛文元年)頃に浅井了意により書かれた『東海道名所記』の中には、鰻島が原(現在の静岡県沼津市原)付近を描いた挿絵に、大皿に盛られたウナギの串刺しが描かれている。単純に串焼きのウナギである。まあ、蛇を波痩せて串刺しにしたような感じだ。

 徳川家康時代に江戸湾の干拓によって多くの湿地が出来て鰻が住み着いた結果、労働者の食事(雑魚)として串に刺して蕎麦などと同様に屋台による立ち食いの簡単に提供される安価な軽食として食べられていた。ウナギが庶民の食べ物となったのは、この時代である。ちなみに江戸城は、当時は海辺にあった城であった。



 この図でわかるように日比谷のあたりが「入り江」であったのだから、徳川家康は江戸城を拡張するのにかなりの拡張工事を埋め立て工事を行ったことになる。ちなみに、あの映画「男はつらいよ」で有名な柴又帝釈天の「柴又」は、もともと湿地帯で「島また島」という言葉が語源であり、当時あのあたりがかなり今と湿地になっていたというような感じが地名から読み取れるのである。


そういえば浅草の浅草寺であっても、近くでアサリ漁をしているときに金の阿弥陀如来が出てきたことから、あそこに浅草寺ができたというのである。そう考えると浅草寺や柴又帝釈天のあたりまでかなりの広さで海と湿地帯が広がっていたということになる。徳川家康は江戸城を作るにあたり、「天下普請」として、全国の大名に言い、それをかなり埋めたってあのである。現在銀座あたりもすべて海の中であったということになるのだから、なかなか大変だ。


 その海の埋め立てから、海で育ち川に遡上する魚である、鯉・ウナギが江戸の周辺にはかなり入ってくることになるのではないか。だから江戸の川魚も名物といえば、前回のグルメリポートで出てきた「どじょう」「鯉の洗い」そして「ウナギのかば焼き」となるのである。これは、埋め立てをしている作業員がそのまま近くにいる魚を捕ることができ、そのまま持って帰って酒でも一杯やりながら食べたということになる。それほど「作業員の手の届く魚」、まあ、文字通り「買うことができる」ではなく「手で摑まえることができる」魚であったことがうかがえるのではないか。


 ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つという現在につながる調理方法は1700年頃に登場した。初めのうちは、味付けにはまだ味噌や酢を用いていたという。


 下総国野田(現在の千葉県野田市)と銚子(現在の千葉県銚子市)で造られる関東醤油(濃口醤油)の普及にあわせ、醤油を使った蒲焼が登場するようになる。ウナギの白焼きで醤油とわさびで食べるというのは、この時代のものである。ちなみに味噌としょうゆ双方で楽しめるものは少なくない。例えば寿司。きゅうりを使ったかっぱ巻きなどは、味噌でも醤油でもおいしく食べることができる。また豆腐も「冷ややっこ」ならば醤油だが「田楽」ならば味噌というような感じではないか。このように考えると、しょうゆと味噌というのはかなり親和性が高い。醤油で食べられるものは、味噌でも食べられるのである。


 その後「たれ」が登場する。


 たれの登場以前からウナギは食されていたが、たれの開発と蒲焼によってウナギは爆発的に流行する。蒲焼の誕生には、醤油・みりん・酒・砂糖などの甘み調味料の普及と同時に、生きたウナギをさばく技術がなければ完成しなかったといわれている。タレを使って蒲焼にするウナギは庶民に広がって江戸料理となった。しかしかなり手間がかかるものとして様々なことが言われるようになったのである。


鰻屋でせかすのは野暮


蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む

1700年頃に出された『江戸名所百人一首』の絵札に深川八幡社と鰻売りの露天が描かれており、絵には露天の行燈に名物の大かばやきと記されている。これは古代からの調理法と区別するために、現在と同じ調理法の物を大かばやきと名乗ったものである。


1723年(享保8年)出版の山岡元隣著『増補食物和歌本草』の中に、焼いたウナギは山椒味噌や醤油で食べることを勧める内容が記されている。ただし、この時点では現在のようにたれを付けて焼く調理法ではなかったとされる。


1800年(寛政12年)に出版された『万宝料理秘密箱』の中にも醤油や酒を使ったものが見受けられ、たれを使った蒲焼の作り方が確立されたのは江戸時代中期以降とされている。


 ウナギが「鰻屋」として独立して商店に看板がかかるのようになるのは、1750年頃とされる。このころには、隅田川の花火大会などもあり、露天の鰻屋で串を売ったウナギを食べながら花火見物などということもあったようだ。江戸の江東区深川付近でも数軒が営業して深川飯とウナギのかば焼きなどという組み合わせもあったのではないか。現代の和食の原型ができたのは、文化・文政の頃といわれ、ウナギ・天ぷら・寿司などが大衆に流行した。その流行は、「江戸前大蒲焼番付」という蒲焼屋を紹介する本が発売されるほどであった。

1760年(宝暦10年)の『評万句合』という川柳には


江戸前に のたをうたせる 女あり


という句があり、うなぎの蒲焼が存在していた。


 江戸時代後半には庶民の味覚として定着し、1829年(文政12年)、1832年(天保3年)の『曲亭馬琴日記』には、うなぎの蒲焼の切手(現在の商品券に相当)が流通していたことを示す記述も見られる。もちろん関西型と関東型で異なる料理法もあるが、ある意味でウナギが庶民の味になったのは、間違いがない。



3 宮川のウナギ


「宮川」という名前の鰻店は数多くある。もともとは築地市場の近くに鰻店ができたのが初めだという。

 もともと江戸時代は魚河岸は日本橋周辺にあった。江戸時代、大久保彦左衛門と一心太助の物語などは、ほとんど日本橋周辺であるといわれている。日本橋から江戸橋にかけての川沿いにあったといわれている。もともと漁舟が川を上ってきていることと、神田や御徒町などが商店が多かったことから、そのあたりに魚河岸が集中していたのである。


 しかし、その魚河岸群が、関東大震災で全滅してしまった。そのために、その魚河岸を全て築地にうつしたのである。


 「日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。」


 日本橋魚河岸跡案内板(中央区教育委員会)にはこのように書いてある。ついでに、もう少しこの案内板を見てみよう。


「日本橋北詰東側の河岸には、魚屋の屋台小屋が並ぶ魚河岸があり、そこへは、水運を利用して、各地から、たくさんの魚介類が集められた。その魚河岸は、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つで、魚河岸の旦那といえば、江戸歌舞伎の最大のスポンサーでもあったという。」



「江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。」



 まさに、江戸文化と直結していた魚河岸であったといえる。同時に、当時は冷蔵庫などがなかったために、魚河岸は、当然良い消費地に直結していなければならない。神田などが中心であったりあるいは大名屋敷に魚を届けるとなれば、その交通の要衝、中心地である日本橋に魚河岸を作る必要があったのだ。その魚河岸が無くなった。そこで、魚河岸を築地本願寺横にまとめたのである。


 築地にしたのは、、隅田川や汐留駅といった水運、陸運に恵まれていた事と、やはり消費地に接近しているということではないが、銀座が近かったということが大きかった。そのうえ、旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地(海軍大学校、造兵廠、水路部などの施設があった)などでちょうど土地が余っていたということになる。まあ都心に土地が余っているというのも、戦前大正時代でなければあり得ない話であるが、そのようなことから、戦前から築地が魚河岸となったのである。


 さて、宮川は店のカタログによると「慶応三年創業」とあり、魚河岸の築地移転とはあまり関係がない。もちろん「魚河岸は、海の魚」というような感覚で言えば、墨田川や汐留というような川があれば、そこの川のウナギや鯉を食べるには、魚河岸は関係がない。川さえあればよいのである。ついでに言えば、ドジョウなどでわかるように、川魚は空気さえ与えておけば井戸水でよいので活かしたまま運ぶことができる。そのために、川から少し離れたところでも何とかなる。


 しかし、川魚は、活かしているだけに「臭み」が残る。その臭みをどうやって消すのかということが大きな問題になるのだ。


 ウナギの場合は、それを「蒲焼」つまり「たれ」につけて「焼く」ことで消してしまうのである。そこで、この「たれ」が秘伝ということになる。このたれはまさに店によって異なるといってよく、そのたれによって蒲焼の味も違えば、蒲焼の焼く時間なども異なるということになる。

 宮川のたれは甘めが強い醤油味だ。




 さて、まずはうな重というのは、待っている間にウナギを焼く臭いで一杯いける感じだ。炭火に醤油が焼ける匂いなのであるが、醤油だけであると焦げた香ばしいにおいになってしまう。

焼き鳥のたれやウナギのたれの場合、たれの中に醤油だけではなく酒やみりん、塩、だけではなく、場合によっては水飴など甘みを増すものが入っているということになる。酒でコク、みりんで深み、そして水飴でテリ、塩で味の引き締め、醤油そのもので香ばしさを出すというのがウナギのかば焼きの基本であろう。それがウナギそのものと合うかどうかである。


 ウナギは、生きている鰻を触ったことがある人ならばよくわかるように、ヌルヌルしている。そのヌルヌルと、内部の身のところはかなり脂が多く、その脂だけで醤油だけでははじいてしまうのである。その脂にはじかれないように、ウナギのたれというのは、少しドロドロと粘り気があるようにできている。これは身に良く絡むようになっているのである。もちろん、ゲル状などになってしまってはたれとしてはならない。そこで、その微妙なドロドロ加減が重要なのだが、そのちょうどよいドロドロ加減のたれが焼けている炭の上に落ちて、ウナギの脂とともに焼けるのであるから、そのたれと脂の焼ける匂いは、かなりおいしいそうな味になる。まあ、ここまで解説しないでも経験した人の方が多いに違いない。


 さて、そのウナギがお重の上に乗る。これがうな重である。うな丼とうな重と二つあるが、うな丼は丼の上にウナギが乗ってるのに対して、うな重は言葉の通りお重の上にウナギが乗っている。違いは鰻とご飯の割合だ。つまりは「ウナギでお腹がいっぱいになるのか」「ごはんでお腹がいっぱいになるのか」ということが最も異なるところだ。もちろんうな丼の場合「丸い器の中に四角いウナギが入る」のだから、ウナギは自然と小さくなるのだから、うな重の方がウナギのみが大きくなるということになるのではないか。


 その、ウナギの間を埋めるのが実はご飯、しかし、このご飯も「たれがかかったたれご飯」である。つまり、うな重というのはたれご飯が大きなポイントになる。ある意味で「たれがかかった鰻」と「たれがかかったご飯」ということなるものが同じ味付け位になっている食材のコラボであるということが言えるのではないか。

 その意味では、たれの味が重要であるということになる。


 そこで、私はいつもうな重を前にしたら、まずは、「たれご飯」つまり「ご飯のたれのかかった部分だけ」を食べる。ウナギはまずは食べない。まずはたれで少し茶色くなったご飯を食べるのだ。


 このたれご飯がおいしいかどうかは、我々のテーブルの上に「追加用のたれ」の瓶があるかどうかが一つの物差しとなる。たれに自信があるところ、つまりご飯にたれをかけるだけで十分においしいところは、たれのみの瓶がある。一方、たれに自信があってもたれがかなり高価な場合、だいたいの場合は水飴や高級な酒が入っている場合などは、少量の醤油さしにたれが入ってきて、それもうな重の時だけについてくる場合がある。またたれが醤油っぽい場合は、追加のたれがない場合があるのだ。安い店、例えば蕎麦屋や牛丼屋のうな重に、追加のたれが付いていないのはたれをそこで作っていないばかりか、たれそのものに自信がないということになるのだ。


 この「味乃宮川」では、基本的にウナギ専門店であり、なおかつたれが多分醤油と酒とみりんの調合でできていることから、初めから食卓の上にたれの瓶が置いてある。ここのたれは少々甘口で少しさらさらした醤油っぽいたれだ。たれそのもので味わうにはかなり濃い味であるが、ご飯などにかければおいしくいただけるというものである。

 たれご飯を口の中に入れると、まずはご飯の温かさから出てくる湯気とそこに混じったたれの風味が口の中に広がる。ご飯も熱すぎず、また冷たすぎず、ちょうど炭から上がったばかりのウナギの身の「保温」をしながら「湯気でウナギの身を必要以上に変えてしまわない」というような温度のご飯である。


 なかには、めいっぱい熱いご飯の上にウナギが出てくる場合があるが、あれが、一度焼きあがったウナギを再度蒸しているようになってしまう。もちろんその意図があるならばよいが、その場合は湯気が付いてしまう分、ウナギの味を濃くしなければならない。もともとウナギは表面が脂が多く、なかなかウナギの中まで味が染みない。だからウナギの蒲焼を縦に切っても中に白い部分が出てくるのである。つまり表面に湯気が付いてしまっては、最もおいしい状態で焼きあがったウナギが台無しになってしまう。逆に湯気の出るようなご飯にウナギを載せるのであれば、それだけしっかりとした味付けにしなければならない。

 宮川はそこまで気を使ったウナギになっており、ご飯の温度が程よく暖かくなっているところが憎い演出だ。その微妙に暖かいご飯に、たぶん煮切った酒、そしてみりんが入っている醤油、それに少しだし汁が入っているのであろうか。コクがありながらも濃い味ではなく、少し薄い甘口のたれが、うまく絡まって口の中にたれの風味と甘さを十分に広げる。ウナギそのものを食べるよりも先に、まず、このたれの味を確認することが最も良い。

 そののちに、ウナギを一口大に切る。


 簡単に「切る」と書いたが、木の割りばしで、少し力を入れて切れるということはかなり大変なことである。よくよく考えてみれば、あのウナギの固い皮があるのだ。触ったことはないかもしれないがかなり厚くなおかつ弾力性のある皮なのだ。その皮が付いていながら、箸で簡単に切ることができるというのは、なかなか難しい。これは、事前に処理をするときに十分に骨を切り、なおかつ、皮にも十分に切れ目を入れて、その上で関東風のウナギにある「十分に蒸した」状態であったに違いない。関西のウナギの中にたまに皮が固くて箸で切れないものがあるのだが、まさにそのようなことの無いように、しっかしとした処理がされているということになるのである。


 そのうえ、その割りばしで切ったところで、白い部分が少ないがそれでもウナギの中心部分にわずかに残っている。この白い部分が本来のウナギの味であり、その一帯を一緒に食べるために、たれの味が濃くできているということになるのだ。逆に言えば、そこまで計算しつくした味付けということになるのではないか。


 一口大に切ったウナギの白色と茶色のコントラスト、そして、ご飯もたれのかかった茶色と、かかっていない白色のコントラスト。この二つのコントラストをうまく組み合わせ、そのまま口の中に放り込む。今度は「たれご飯」とは異なり、そこにたれと白身の混ざったウナギ本体が入る。ご飯だけとは異なり、ウナギの柔らかい、それでも少し弾力のある歯触りが心地よい。奥歯でウナギを噛めば、そのままウナギはつぶれてしまうのだが、そこの中から出てくるウナギの白身の部分の、今焼きあがったばかりのような、動物性特有の温かい空気が口の中を走り、その白身の味のすぐ後を、たれの付いた身の香ばしさが口の中の味を塗り替えてゆくのである。たれご飯・白ご飯。たれのウナギ・白ウナギの四重奏が、口の中を一周したところで、何か至福の時を感じるものがある。


 しかし、少し待てよ。

 風味、そう、香りが足りない。もう一つは甘さと醤油の香ばしさだが、どうも刺激が足りない。


 そう思った方は大正解である。もう一度一口大に切ったウナギを前にして、もう一つ、机の上にある「山椒」をかける。山椒は初めからかけすぎてはいけない。舌の感覚がマヒしてしまうので、あとの味がわからなくなってしまう。そこで山椒をほんの一振りかける。ここで少し待つ。この「少し」という言葉を「ひと呼吸」とはよく言ったものだ。ひと呼吸待って、ふた呼吸目になると、温かいご飯の上記で上がってきた山椒の刺激のある良い香りがする。私は、個人的には七味よりも山椒の方が好きだ。焼き鳥にも山椒をかけて食べたいくらいである。そのふた呼吸目の山椒の香りを楽しんで、そのままもう一度口の中に入れる。今度は、たれの味よりも先に、まず山椒のピリリとした辛さが舌を刺激し、そしてほんのひと振りなのに、強い香りで口の中を洗ってくれる。山椒の味は、そのまま今まで食べた甘さとコクと香ばしさをすべて消し去り、そして、新たな調和のハーモニーを口の中で作り出してくれるのである。


 ああ、なんという幸福。


 山椒の香りに醤油の香ばしさ、みりんや酒のコク、出汁の風味、そこにウナギの柔らかさと歯ざわり、これらが口の中で改めて素晴らしい芸術を作り出してくれるのだ。


 少し行ったところで漬物に箸をつける。いわゆる箸休めというものである。

宮川では柴漬けきゅうりと沢庵大根が付いてくる。このどちらも「コリコリ」と音が出る食材だ。香り、歯ざわり、色、これは楽しませてくれたものの、うな重ではなかなか耳がお留守になってしまう。それだけに、現代ではウナギを食べながらの会議というのは、マスコミが非常に多いのである。あまり耳を取られる心配がないからである。その耳の感覚に唯一刺激がくるのがこの漬物である。今まで全くの無音の世界であった口の中に音が生まれ、その音の中に、漬物特有の塩分が広がるようになっている。つまり、今まで甘さと山椒で十分にハーモニーを味わったところをきれいに塩分で掃除するということになるのではなかろうか。


 このようにして、音と白色と茶色で作り出すコントラストは、実は自分で追加のたれや山椒を入れることによって完成させるというような中身になっている。

出てきた時点では、それだけでも十分においしいが、それでも一人一人のすべての好みに応えられる料理ではない。その料理を、よりおいしく一人一人の好みに合わせて食べるためには、自分の好みに合わせてたれや、山椒、そして刻々と変化するご飯やウナギそのものの温度の変化を見ながら自分で味を変えて、また時には漬物で口の中を洗いながら、味の変化を楽しむというのがうな重の本当の楽しみ方なのではないか。


 一つのお重の中に、何段にも重なったハーモニーがある。まさに「お重」なのだ。それを最も体現しているのが、和食の中ではうな重なのかもしれない。

他の牛丼やカツ丼のように「どんぶり」が中心の料理ではなく、やはり「うな重」とお重が中心の料理は、その中の「重なり」を重視した料理になっているのではないか。

 皆さんも是非ご賞味あれ。

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